恒例の火曜日RUN。
日差しはもう春、風は冬の名残り、けれどももうすぐ入れ替わる気配。
樹に咲く花も既に準備万端、あとは水温むのを待つばかりだ。
最近のレッスンで専らの仕事になってしまっているのが、巷に溢れている演劇ワークショップ等で使用されている、間違った指導表現の是正。
一番誤解されている例が「余分な力を抜く」であり、それが過剰な脱力による声門閉鎖不全を招き、結果として音声障害になる人が続出しているのだ。
そして、そう言う「発声難民」が、続々と私のもとを訪れてくださる。
実は、「余分な力を抜く」=「適正なパワーバランスで」と言う事であり、闇雲に身体の力を抜けば良いと言うものではない。
力を抜く、と言う事は、筋肉の機能を停止する、と言う事であり、もしもそれが身体を支える筋肉群に及んだとしたら、どうなるか。
運が良ければ骨格だけで支える事も出来なくなはないけれども、それにも限界があり、重大な健康被害に繋がるだろう。
更に、声の材料である「原音」を生み出す声帯を適正に合わせるのも微細な筋肉の力である。
脱力を過剰に意識しているうちに、下手をするとその筋肉まで脱力の対象になってしまうため、声帯が合わず音を発する事が出来なくなってしまう事もある。
怖いのは、それが脳に刷り込まれて習慣となってしまう事で、そうなると是正するには、かなりの時間が必要。
そうなってしまう原因は、受け取る側の誤解も勿論あるだろうけれども、大抵は指導者の理解不足である。
演劇のワークショップに於ける発声指導は、大抵指導者が生半可な知識や聞きかじりで実施している場合が多い。
しかも、その知識や情報は、昭和の時代に流布されたものだったりして、何の役にも立たないどころか、却って表現の邪魔になったり、身体能力の減退に繋がってしまったりする。
また、欧米のメソッドが、間違って解釈されている例も多々見受けられ、大いに危機感を持っている。
たとえ正しい理解のもとに行われていても、日本の表現者の現状にそぐわない、と言う悲しい現実もある。
大抵の方はイメージして頂けると思うけれども、欧米の表現者は皆一様に身体を前以って作り上げてからメソッドに臨むけれども、日本人は身体も作らずにメソッドに取り組もうとするので。
さて今週は、何人の難民を救えるだろうか。
難民救済は、表現者の世界でも急務になりつつある。
日差しはもう春、風は冬の名残り、けれどももうすぐ入れ替わる気配。
樹に咲く花も既に準備万端、あとは水温むのを待つばかりだ。
最近のレッスンで専らの仕事になってしまっているのが、巷に溢れている演劇ワークショップ等で使用されている、間違った指導表現の是正。
一番誤解されている例が「余分な力を抜く」であり、それが過剰な脱力による声門閉鎖不全を招き、結果として音声障害になる人が続出しているのだ。
そして、そう言う「発声難民」が、続々と私のもとを訪れてくださる。
実は、「余分な力を抜く」=「適正なパワーバランスで」と言う事であり、闇雲に身体の力を抜けば良いと言うものではない。
力を抜く、と言う事は、筋肉の機能を停止する、と言う事であり、もしもそれが身体を支える筋肉群に及んだとしたら、どうなるか。
運が良ければ骨格だけで支える事も出来なくなはないけれども、それにも限界があり、重大な健康被害に繋がるだろう。
更に、声の材料である「原音」を生み出す声帯を適正に合わせるのも微細な筋肉の力である。
脱力を過剰に意識しているうちに、下手をするとその筋肉まで脱力の対象になってしまうため、声帯が合わず音を発する事が出来なくなってしまう事もある。
怖いのは、それが脳に刷り込まれて習慣となってしまう事で、そうなると是正するには、かなりの時間が必要。
そうなってしまう原因は、受け取る側の誤解も勿論あるだろうけれども、大抵は指導者の理解不足である。
演劇のワークショップに於ける発声指導は、大抵指導者が生半可な知識や聞きかじりで実施している場合が多い。
しかも、その知識や情報は、昭和の時代に流布されたものだったりして、何の役にも立たないどころか、却って表現の邪魔になったり、身体能力の減退に繋がってしまったりする。
また、欧米のメソッドが、間違って解釈されている例も多々見受けられ、大いに危機感を持っている。
たとえ正しい理解のもとに行われていても、日本の表現者の現状にそぐわない、と言う悲しい現実もある。
大抵の方はイメージして頂けると思うけれども、欧米の表現者は皆一様に身体を前以って作り上げてからメソッドに臨むけれども、日本人は身体も作らずにメソッドに取り組もうとするので。
さて今週は、何人の難民を救えるだろうか。
難民救済は、表現者の世界でも急務になりつつある。