恒例の火曜日RUN。
どんよりとした曇り空かと思いきや、青空が広がり、気温もぐんぐん上がって行った。
走りながら雲の模様を見ていると、梅雨空と言うよりは、夏空と言った風情である。
最近、体幹に関する記述を良くしているせいか、ドイツに渡って暫く経って、当時演技を教わっていた先生に言われた事を思い出す事が多くなった。
曰く「日本人は読解は得意だが、フィジカルが全くダメ。それだと、脳が(演技の)指示を出しても、実行する動力がない」。
恥ずかしながら、その頃はフィジカルの重要性など、殆ど意識していなかったため、「どうせそうですよ」くらいにしか思っていなかった(笑)。
ところが、その後イタリアでも、更にはポップスの発声を学ぶために渡ったアメリカでも、言い方は違えども同じ事を指摘されてしまい、「これはいかん!」と思った。
ただ、帰国して暫くは、当時主流だった声楽=運動禁止の罠に嵌り、折角学び取って来た技術も宝の持ち腐れになりかけた。
更に、当時関わった演劇界は、壮絶な思考回路と貧弱な身体が同居している世界だった事も、それに拍車をかけた。
表現芸術に関する限り、内容を読み解く事は勿論欠かせない作業であり、それ無しでは作品自体がインスタント食品(たまには美味しいけど)の様なものになるだろう。
けれども、それと並行してフィジカルなトレーニングを積み、読解によって得られた膨大な情報量を処理し実行出来るだけの筋力は備えていたい。
表現者が忘れ易い事ではあるけれども、人間のありとあらゆる動きは筋肉の仕事であり、況してや表現の場においては、習慣化されたそれではなく、わざわざ再現しなければならないのだから、日常生活以上に必要なのは明らかだろう。
自分自身が、ハイパーなスペックを備えた表現者になろうと思い立ったのは、事故後にPTSDを発症して、その治療に運動療法を勧められたのがきっかけと言える。
トレーニングをすればする程、以前出せなかった様な声が出せ、感染症にやられた(それも滅多にない事ではあるけれども)以外では滅多に声を壊さなくなった。
リハビリに端を発しているためスタイルに拘らず、ただひたすら目的に集中する事が出来たのだと思う。
良く若い人に言う事だけれども、トレーニングにスタイルを求めるのは、あまり良い策とは言えない。
向き不向きを理由にして、本当に必要なスペックを得るためのトレーニングを、知らず知らずのうちに避けてしまっていたりするからだ。
少なくとも人より抜きん出るためには、形振り構ってはいられない側面も確かに存在する。
形振り構わず、我武者羅に突っ走った期間を終え、青空の下で紫陽花の青紫を愛でる。
そう言えば、花が好きになったのは、身体を鍛える様になってからだった様な気がする。
それだけ、身体的な余裕が出来、それが心のゆとりをも生んでくれたのだろうか。
さて、今日も若い人たちを鍛えて行く。
きちんと鍛えて、少なくとも花の色を愛でるくらいのゆとりを持たせたい。
どんよりとした曇り空かと思いきや、青空が広がり、気温もぐんぐん上がって行った。
走りながら雲の模様を見ていると、梅雨空と言うよりは、夏空と言った風情である。
最近、体幹に関する記述を良くしているせいか、ドイツに渡って暫く経って、当時演技を教わっていた先生に言われた事を思い出す事が多くなった。
曰く「日本人は読解は得意だが、フィジカルが全くダメ。それだと、脳が(演技の)指示を出しても、実行する動力がない」。
恥ずかしながら、その頃はフィジカルの重要性など、殆ど意識していなかったため、「どうせそうですよ」くらいにしか思っていなかった(笑)。
ところが、その後イタリアでも、更にはポップスの発声を学ぶために渡ったアメリカでも、言い方は違えども同じ事を指摘されてしまい、「これはいかん!」と思った。
ただ、帰国して暫くは、当時主流だった声楽=運動禁止の罠に嵌り、折角学び取って来た技術も宝の持ち腐れになりかけた。
更に、当時関わった演劇界は、壮絶な思考回路と貧弱な身体が同居している世界だった事も、それに拍車をかけた。
表現芸術に関する限り、内容を読み解く事は勿論欠かせない作業であり、それ無しでは作品自体がインスタント食品(たまには美味しいけど)の様なものになるだろう。
けれども、それと並行してフィジカルなトレーニングを積み、読解によって得られた膨大な情報量を処理し実行出来るだけの筋力は備えていたい。
表現者が忘れ易い事ではあるけれども、人間のありとあらゆる動きは筋肉の仕事であり、況してや表現の場においては、習慣化されたそれではなく、わざわざ再現しなければならないのだから、日常生活以上に必要なのは明らかだろう。
自分自身が、ハイパーなスペックを備えた表現者になろうと思い立ったのは、事故後にPTSDを発症して、その治療に運動療法を勧められたのがきっかけと言える。
トレーニングをすればする程、以前出せなかった様な声が出せ、感染症にやられた(それも滅多にない事ではあるけれども)以外では滅多に声を壊さなくなった。
リハビリに端を発しているためスタイルに拘らず、ただひたすら目的に集中する事が出来たのだと思う。
良く若い人に言う事だけれども、トレーニングにスタイルを求めるのは、あまり良い策とは言えない。
向き不向きを理由にして、本当に必要なスペックを得るためのトレーニングを、知らず知らずのうちに避けてしまっていたりするからだ。
少なくとも人より抜きん出るためには、形振り構ってはいられない側面も確かに存在する。
形振り構わず、我武者羅に突っ走った期間を終え、青空の下で紫陽花の青紫を愛でる。
そう言えば、花が好きになったのは、身体を鍛える様になってからだった様な気がする。
それだけ、身体的な余裕が出来、それが心のゆとりをも生んでくれたのだろうか。
さて、今日も若い人たちを鍛えて行く。
きちんと鍛えて、少なくとも花の色を愛でるくらいのゆとりを持たせたい。