恒例の土曜日RUN/2018.07.21

恒例の土曜日RUN。
もう36℃とか37℃とか…、いつの間にか見慣れてしまっている事に気付く。
こうやって人間は、様々な事柄を、いつの間にやら克服して行くのだろう。

ここのところ考えさせられる出来事が多く、私自身も、それに対する考えがまとまらず苦慮したけれども、この週末で明らかになって来た。
要は、「表現者にも経済観念が必要」と言う事。
経済観念、と言っても、実生活の収入や支出の事を言っているのではない。

「収入」に当たるのは自分のスペック、「支出」と言うのは求められているスペック、と言う訳だ。
日本には、その収支が合わず、苦しんでいる人が数多くいる様に思う。
そして、かく言う私も、かつてはその中の一人であったと、今にして思うのだ。

実生活での収入に見合わない支出は、その人の経済を破綻させる事は紛れも無い事実。
表現者の世界でも、それは起こり得る。
自分のスペックも把握せずに、かなり高度なスペックを求められる世界へ踏み込んでしまおうとするケースがそれだ。

誰でも、好きな様に支出したいし、そうすればより良いものが次々とやって来る。
しかしながら、自分の収入がそれに耐えられなければ、もう自己破産するしか道は無くなってしまったりする。
表現者の世界で自己破産に相当するものはと言うと、もう一度スベックを高めるために訓練を受け直す、と言う事になるけれども、そこまでモチベーションが続く人は、恐らく稀なのではないだろうか。

若い頃、海外留学の道を模索していた私は、様々な審査を受け、悉く落選した。
私は、「才能を買ってもらえる」と勘違いしていたけれども、私は「才能=素質」と思い込んでいたフシがあった。
けれども今にして思えば、選ぶ側にとっては「才能=実力」であったのだろう。

幸運にも、某団体から奨学金を得て海外留学したけれども、一番最初のレッスンで言われた事は、未だに忘れていない。
「ゼロからスタートするつもりで来たんじゃないよね?我々イタリア人と同じラインに立っていないと、時間と費用の無駄だよ」
勿論、現地の音楽学校に入っていれば話は別だったろうけれども、それにも入れず、プライベートレッスンを受けざるを得なかった私だからこそ向けられた言葉だった。

今、「自分は日本では規格外」と考えている若い表現者は数多く、勿論文字通り、超ド級の新人は明らかに存在するだろう。
しかし悲しいかな、大抵の場合は、思考回路が「規格外」で、実力は「規格以下」なのである。
更に悲しい事に、昭和の時代なら兎も角、日本の水準もそれなりに上がって来ているため、日本で規格外ならば海外でも規格外とまでは行かなくともかなり下、と言うケースが多くなって来た。

私の若い頃の様に、遮二無二猪突猛進して幸運にも結果を掴み取れる程、大らかな世の中ではなくなって来ている。

私も、いつまでも求められるスペックに十二分に応えられる表現者であろうと思う。