恒例の火曜日RUN。
走るには絶好の日和になって来て、ついつい航続距離を伸ばしてしまい、帰り道に後悔する(笑)。
市ヶ谷の拠点にあるアロエも満開で、いよいよ春の到来が近い事を告げている。
一つの事が上手く行かず、別な道に活路を求めようとする時、今までの経験を何かに活かそうと言う考えになるのは普通の事である。
ただ、その時に注意しなければならないのは、その活かそうとしている経験の内容。
失敗を経験則として経験値を積み上げ、次に活かすなら良いのだけれども、中々そうは行かない場合が多い。
何故ならば、兎角「上手く行かなかったのは、周囲が自分を認めなかったからだ」と言う考えが湧き易いからだ。
そう言う場合、「〇〇なら上手く行くんじゃないか」と、様々なカテゴリーを転々とし始める。
特に、表現芸術系には、この様な例が数多くある。
例え数年でも、表現芸術の世界に携わった者は、世間一般からは「プロ」と見做される場合が多い。
そのプロと見做された者が、誤った経験則を基に、違うカテゴリーで発信を始めたらどうなるだろう。
それに振り回されるのは、一般の人々である。
勿論、情報を受け取る・受け取らないの選択の自由はある。
ただ、恐ろしいのは「嫌なら見なければ良い」と開き直られる事なのだ。
情報発信と言うものは、余程注意深くしない限り、本人も気づかないうちにエスカレートして行くものなのだから。
あくまで私見ではあるけれども、私もプロの一人として、プロとしての情報発信は、一般の人たちに確かな技術情報を還元する事が必須と考えている。
音楽にとって「音程なんか外しても良い」と啓蒙される事は、世間一般に置き換えれば「赤信号なんか守らなくて良い」に近い事になる様に思えてしまうのだが…これは考えすぎなんだろうか。
解釈によるだろうけれども、メロディやリズムの制約の中で、どれだけの表現が出来るか、と言う事に価値があると思える。
それは、どんなスポーツにもルールが存在するのと同じである。
思い出せば、子供の頃、空き地での遊びにも緩くはあったけれども、ルールはあった。
今から考えれば、それがあったお陰で、だれも大した怪我をせずに済んでいたのかもしれない。
以前受けた舌下治療のおかげで、今年の花粉症はクシャミ三回だけで去ってくれた。
様々なものが流行っていて不安だけれども、確かな情報を把握して困難を乗り切りたいものだ。
走るには絶好の日和になって来て、ついつい航続距離を伸ばしてしまい、帰り道に後悔する(笑)。
市ヶ谷の拠点にあるアロエも満開で、いよいよ春の到来が近い事を告げている。
一つの事が上手く行かず、別な道に活路を求めようとする時、今までの経験を何かに活かそうと言う考えになるのは普通の事である。
ただ、その時に注意しなければならないのは、その活かそうとしている経験の内容。
失敗を経験則として経験値を積み上げ、次に活かすなら良いのだけれども、中々そうは行かない場合が多い。
何故ならば、兎角「上手く行かなかったのは、周囲が自分を認めなかったからだ」と言う考えが湧き易いからだ。
そう言う場合、「〇〇なら上手く行くんじゃないか」と、様々なカテゴリーを転々とし始める。
特に、表現芸術系には、この様な例が数多くある。
例え数年でも、表現芸術の世界に携わった者は、世間一般からは「プロ」と見做される場合が多い。
そのプロと見做された者が、誤った経験則を基に、違うカテゴリーで発信を始めたらどうなるだろう。
それに振り回されるのは、一般の人々である。
勿論、情報を受け取る・受け取らないの選択の自由はある。
ただ、恐ろしいのは「嫌なら見なければ良い」と開き直られる事なのだ。
情報発信と言うものは、余程注意深くしない限り、本人も気づかないうちにエスカレートして行くものなのだから。
あくまで私見ではあるけれども、私もプロの一人として、プロとしての情報発信は、一般の人たちに確かな技術情報を還元する事が必須と考えている。
音楽にとって「音程なんか外しても良い」と啓蒙される事は、世間一般に置き換えれば「赤信号なんか守らなくて良い」に近い事になる様に思えてしまうのだが…これは考えすぎなんだろうか。
解釈によるだろうけれども、メロディやリズムの制約の中で、どれだけの表現が出来るか、と言う事に価値があると思える。
それは、どんなスポーツにもルールが存在するのと同じである。
思い出せば、子供の頃、空き地での遊びにも緩くはあったけれども、ルールはあった。
今から考えれば、それがあったお陰で、だれも大した怪我をせずに済んでいたのかもしれない。
以前受けた舌下治療のおかげで、今年の花粉症はクシャミ三回だけで去ってくれた。
様々なものが流行っていて不安だけれども、確かな情報を把握して困難を乗り切りたいものだ。


